動物たちのこと
動物愛護、そして生命尊重を考えていると、いつだって大きな矛盾にぶつかってしまう。
仕事柄いろいろな動物愛護に関する考え方に触れる機会があるが、本当にスッキリ納得できる答えはなかなか見出せない。
それはそういうことを考える私たち自身の、動物としての生い立ちそのものから生まれる大きな矛盾に起因しているのかもしれない。
地球の歴史の中では人類も他の動物(および植物)同様に種の存続を目指して進化を続けてきた。
繁栄した種が勝ち組、絶滅した種が負け組、という価値観もあるかもしれないが、「現時点では」という但し書きがつく。そして現時点では、ヒトも勝ち組。イヌも勝ち組。
種の存続をかけた戦いでは人類は雑食の捕食者だ。他の動物を殺して食べる。マンモスが絶滅したのは人類が食べつくしてしまったため、という説があるほど捕食していたらしい。
動物愛護が語られる時、自分たちが現在でもなお捕食者である事実を忘れることはできない。
考えた末に菜食主義に移る人もいる。
それとて、捕食者社会に所属している事実は否定しようがない。
食料を得るための飼育動物は家畜。かわいがる対象はペット。捕食の対象ではなく、ペットでもないのは野生動物。
こういった線引が有るようだが、生命尊重の観点から言えば命には何ら変わりがない。
さて、動物園の動物たちは野生動物なのか。
自然界から人間の都合で連れてこられたのではないか。
何のために捕まえられ、飼育されているのか。
動物園関係者にとっては非常に大きなテーマだと思う。
動物園、水族館の存在意義・・・・・・。
絶滅危惧種を守るために繁殖を考えている施設もある。
マンモスを食べつくした人類の末裔が一生懸命絶滅危惧種を救おうとしている。
これまで地球上に生を受けた動物の9割以上がすでに絶滅している事実。
うまく進化してきた種は、その時の環境に適合しながら何とか生き残っている。
絶滅したのはヒトとの関わりも含めて、その時の環境に適応しきれなかった種。
絶滅危惧種は救うべきなのか?少なくとも人が絶滅させることだけは避けるべきなのか。
地球の歴史規模で考えたときにそれは正しい判断なんだろうか。それとも、それとても上に立つ人類のおごりなんだろうか。
家畜は食べるという目的のためだから仕方がないが、野生動物を本来の生息域から連れ出して檻の中で飼うのはけしからん、という理屈は正当なのか。
動物側の視点で考えてみよう。
はたして動物たちは人に飼われることを幸せに思うのだろうか。
人に飼われることによって寿命が延びる動物もたくさんいる。
健康管理、安定した食餌の供給、そして天敵などがいない事。
ここでどうしてもQOLを考える必要がある。
危険もない、狩りをする必要もない。しかしやることが何もないという暮らしは幸せなんだろうか。仮にそれで寿命が延びるなら動物にとってはありがたい話なのだろうか?
家畜の場合も、たとえば毎日2回も卵を生んでいるニワトリは幸せなんだろうか?
長くなってしまったが、私はできるだけ、動物をコンパニオンアニマルとそれ以外、に分ける事にしている。
コンパニオンアニマルは人と共生する動物。基本は相互のコミュニケーションが成り立っている状態。お互いをリスペクトしている関係。リーダー論などは関係ない。
動物の種類も関係ない。野生動物に属していても、家畜に属する動物でもコンパニオンアニマルはいる。
反面ペットといわれる動物でもコンパニオンアニマルと呼べない個体もいる。
コンパニオンアニマルは人との暮らしを自らが望んでいる(ように思われる)動物。
私たちと暮らしている犬はコンパニオンアニマルの代表だ。
1万5千年前に犬が人と暮らすことを自ら選んだという科学者の研究結果は非常に気が休まる。
とはいえ、地球上の約8割のイエイヌは飼い主を持たない。
ではその犬たちは飼い主を求めているのだろうか、いないのだろうか。
私がメキシコで遭遇した、いわゆるヴィレッジドッグは非常にフレンドリーで礼儀正しく、連れて帰りたいくらいだった。ああいう犬たちはおそらくだれかに飼われることを望んでいるし、その方が幸せだろうと、その時思った。
鳥はどうだろう。自ら人と暮らすことを選んだ鳥類はいるのだろうか?
多くの場合は自然界から捕まえてきた、いわゆる荒鳥が始まりだろう。
そういった鳥は1世代だけでコンパニオンアニマルになれるのだろうか。
祖父の代から水族館生まれというイルカに会ったことが有る。
その子はプールの中で実にのびのびしていて、QOLも高そうだった。親もその親も外を知らないのだからさもありなん。
鳥はしばしば自然界で捕獲されてペットショップで販売されている。
もしかすると生涯コンパニオンアニマルにはならず、ずっと「閉じ込められた野生の鳥」のままでいるのかもしれない。
これは悲しい。これはまずいと思う。
ただ、特にインコオウムに関しては在来種というのは日本にいないようだから、過去をさかのぼれば、どこかで誰かが荒鳥を捕獲してきたという始まりが有る。
実は文鳥だって外来種。
桜羅は完全にコンパニオンアニマルだが、ルーツを考えれば、少し胸が痛む。
動物園では今盛んにハズバンダリートレーニングという言葉が用いられている。
主に健康管理のために、クリッカートレーニングなどによって望ましい行動を強化するという考えだ。
でもそれ以上に価値が有るのは、それが動物たちにとってヒトとの相互コミュニケーションになりえるということだ。
頭を使い正解を考え、それにクリッカーが鳴る。クリッカーの音は二次強化子。そして二次強化子には一次強化子を上回る喜びが有ると最近の研究で分かっている。
動物がクリッカートレーニングを楽しみにしている。
こうなるともう、たとえそれが動物園の展示動物だとしてもコンパニオンアニマルというジャンルに入るのではないかと思う。
とっ散らかった文章になってしまったが、犬だけではなく、それ以外の人とかかわるすべての動物がより高いQOLで過ごせることを願ってやまない。
仕事柄いろいろな動物愛護に関する考え方に触れる機会があるが、本当にスッキリ納得できる答えはなかなか見出せない。
それはそういうことを考える私たち自身の、動物としての生い立ちそのものから生まれる大きな矛盾に起因しているのかもしれない。
地球の歴史の中では人類も他の動物(および植物)同様に種の存続を目指して進化を続けてきた。
繁栄した種が勝ち組、絶滅した種が負け組、という価値観もあるかもしれないが、「現時点では」という但し書きがつく。そして現時点では、ヒトも勝ち組。イヌも勝ち組。
種の存続をかけた戦いでは人類は雑食の捕食者だ。他の動物を殺して食べる。マンモスが絶滅したのは人類が食べつくしてしまったため、という説があるほど捕食していたらしい。
動物愛護が語られる時、自分たちが現在でもなお捕食者である事実を忘れることはできない。
考えた末に菜食主義に移る人もいる。
それとて、捕食者社会に所属している事実は否定しようがない。
食料を得るための飼育動物は家畜。かわいがる対象はペット。捕食の対象ではなく、ペットでもないのは野生動物。
こういった線引が有るようだが、生命尊重の観点から言えば命には何ら変わりがない。
さて、動物園の動物たちは野生動物なのか。
自然界から人間の都合で連れてこられたのではないか。
何のために捕まえられ、飼育されているのか。
動物園関係者にとっては非常に大きなテーマだと思う。
動物園、水族館の存在意義・・・・・・。
絶滅危惧種を守るために繁殖を考えている施設もある。
マンモスを食べつくした人類の末裔が一生懸命絶滅危惧種を救おうとしている。
これまで地球上に生を受けた動物の9割以上がすでに絶滅している事実。
うまく進化してきた種は、その時の環境に適合しながら何とか生き残っている。
絶滅したのはヒトとの関わりも含めて、その時の環境に適応しきれなかった種。
絶滅危惧種は救うべきなのか?少なくとも人が絶滅させることだけは避けるべきなのか。
地球の歴史規模で考えたときにそれは正しい判断なんだろうか。それとも、それとても上に立つ人類のおごりなんだろうか。
家畜は食べるという目的のためだから仕方がないが、野生動物を本来の生息域から連れ出して檻の中で飼うのはけしからん、という理屈は正当なのか。
動物側の視点で考えてみよう。
はたして動物たちは人に飼われることを幸せに思うのだろうか。
人に飼われることによって寿命が延びる動物もたくさんいる。
健康管理、安定した食餌の供給、そして天敵などがいない事。
ここでどうしてもQOLを考える必要がある。
危険もない、狩りをする必要もない。しかしやることが何もないという暮らしは幸せなんだろうか。仮にそれで寿命が延びるなら動物にとってはありがたい話なのだろうか?
家畜の場合も、たとえば毎日2回も卵を生んでいるニワトリは幸せなんだろうか?
長くなってしまったが、私はできるだけ、動物をコンパニオンアニマルとそれ以外、に分ける事にしている。
コンパニオンアニマルは人と共生する動物。基本は相互のコミュニケーションが成り立っている状態。お互いをリスペクトしている関係。リーダー論などは関係ない。
動物の種類も関係ない。野生動物に属していても、家畜に属する動物でもコンパニオンアニマルはいる。
反面ペットといわれる動物でもコンパニオンアニマルと呼べない個体もいる。
コンパニオンアニマルは人との暮らしを自らが望んでいる(ように思われる)動物。
私たちと暮らしている犬はコンパニオンアニマルの代表だ。
1万5千年前に犬が人と暮らすことを自ら選んだという科学者の研究結果は非常に気が休まる。
とはいえ、地球上の約8割のイエイヌは飼い主を持たない。
ではその犬たちは飼い主を求めているのだろうか、いないのだろうか。
私がメキシコで遭遇した、いわゆるヴィレッジドッグは非常にフレンドリーで礼儀正しく、連れて帰りたいくらいだった。ああいう犬たちはおそらくだれかに飼われることを望んでいるし、その方が幸せだろうと、その時思った。
鳥はどうだろう。自ら人と暮らすことを選んだ鳥類はいるのだろうか?
多くの場合は自然界から捕まえてきた、いわゆる荒鳥が始まりだろう。
そういった鳥は1世代だけでコンパニオンアニマルになれるのだろうか。
祖父の代から水族館生まれというイルカに会ったことが有る。
その子はプールの中で実にのびのびしていて、QOLも高そうだった。親もその親も外を知らないのだからさもありなん。
鳥はしばしば自然界で捕獲されてペットショップで販売されている。
もしかすると生涯コンパニオンアニマルにはならず、ずっと「閉じ込められた野生の鳥」のままでいるのかもしれない。
これは悲しい。これはまずいと思う。
ただ、特にインコオウムに関しては在来種というのは日本にいないようだから、過去をさかのぼれば、どこかで誰かが荒鳥を捕獲してきたという始まりが有る。
実は文鳥だって外来種。
桜羅は完全にコンパニオンアニマルだが、ルーツを考えれば、少し胸が痛む。
動物園では今盛んにハズバンダリートレーニングという言葉が用いられている。
主に健康管理のために、クリッカートレーニングなどによって望ましい行動を強化するという考えだ。
でもそれ以上に価値が有るのは、それが動物たちにとってヒトとの相互コミュニケーションになりえるということだ。
頭を使い正解を考え、それにクリッカーが鳴る。クリッカーの音は二次強化子。そして二次強化子には一次強化子を上回る喜びが有ると最近の研究で分かっている。
動物がクリッカートレーニングを楽しみにしている。
こうなるともう、たとえそれが動物園の展示動物だとしてもコンパニオンアニマルというジャンルに入るのではないかと思う。
とっ散らかった文章になってしまったが、犬だけではなく、それ以外の人とかかわるすべての動物がより高いQOLで過ごせることを願ってやまない。
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仮説-人類はどこから来たか
犬の起源と進化、地球上に現存する多様な生物の「生きる意味」などをつらつら考えていたら、我々人類がどこから来たのか、だれが造ったのか、自分の中で最も納得できる仮説にたどり着いた。
以前惑星協会のメンバーでもあったほど神秘的な宇宙、地球外生命体には魅力を感じているので、犬とのコミュニケーションを研究する過程で得た知識などが、なんとなく未知との遭遇でも役に立つのではないかなぁ、なんて思っていた。
SETIを代表に地球外生命体からの信号を研究する人たちが世界には大勢いる。深遠な宇宙の中で、私たちは一人ではない、と考える人たちだ。私もそう思いたい。
銀河系だけでも生命体が存在する可能性がある星は100万個以上だとカール・セーガン博士は分析した。
しかし残念ながら過去にも現在にもその明白な痕跡は、少なくとも公には発表されていない。
いつか出会える日が来るのだろうか?
そしてなぜ人類はこんなにも地球外生命体の存在を確かめたいのだろう。
人類の起源を自分の持つ限られた知識の中で想像してみた。
人類が言語を手に入れた理由は、科学者にとってもいまだに謎なんだそうだ。「跳躍的進化」がコミュニケーション手段として突然現れたのだが、これは全世界のすべての人類に共通している。生まれつき耳が聞こえない人でも言語を持っている。
一方で、人類以外の生命体で言語を持っている種はまだ確認されていない。
考えてみればとても不思議なことだ。なぜ人類だけ?
進化は種が生き延びるための必然性に支えられている。
現存する種はみな自分たちの環境に驚くほどうまく対応して生き延びているのだ。
逆の見方をすれば、うまく対応できなかった種は絶滅している。地球に生を受けた種の9割以上がすでに絶滅しているという事実がそれを証明している。
人類には当時、言語を得なければならない必然性があったのだろうか。
その時代に言語を手に入れなければ滅んでいたのだろうか。
ところで鳥類の祖先は恐竜だそうだ。幾多の困難を乗り越え、生き延びるために驚くべき進化を遂げている。
一方で現代の鶏にさえ、歯や前脚の遺伝子があり、胚をいじればそれらが出現するという。
隠された遺伝子が存在する・・・。
宇宙がなぜできたのか、生命はどのように誕生したのか、恐竜はなぜ絶滅したのか、今も科学的な研究が続けられていて、私たちにも興味深い新説が届く。
ところで現存する地球上のすべての種に共通していることは何だろう。
絶滅から逃れている種たち。これらに共通しているのは個の命よりも子孫を残すことが重視されていること。
一見利己的な人類でさえ、最後は己を捨てても種の存続を願うんだろう。
そんな私たち人類の遠い将来を考えてみよう。
巨大隕石との衝突が避けられないと解った時、不治の伝染病が蔓延し始めた時、高度な科学を持つに至ったが、それでも人類の滅亡を避けられない日が来たら。
私たちは何をするのだろう?
ノアの箱舟。
そう、きっと後世に我々の種を残すためのノアの箱舟が真剣に考えられるだろう。
もちろん選抜したエリートたちを大きな宇宙船に乗せてどこかの星に移民する、というのもイメージとしてはある。けれどかなり夢物語だ。
すべての生物に共通する一番の願いは種を残すこと。
高度な科学で人類の種を残すためにはどうしたらいいと未来の人は考えるのだろう。
遺伝子の最小限のユニットを無数の隕石に封じ込めて、できるだけ広範囲な宇宙にばらまいたらどうだろう。高度なテクノロジーによるノアの箱舟だ。
なにかタンパク質のカプセルに封じ込めるのかもしれないが、とにかく運が良ければ墜落したどこかの惑星でいくつかの偶然が重なれば、そこに人類の遺伝子を持った生命が誕生する可能性があるのではないか。
もちろん環境に適応するためにずいぶんと違う進化をして行くのだろうけど、実は私たちと同じ遺伝子を持っている生命体。ある日突然言語能力を身につける可能性がある。
ということは?
私たち自身が、もしかしたらどこかの惑星で、かつて高度な科学を身につけた生命体の子孫であることもあり得るわけだ。
自分たちの遺伝子を流星群に託し、それが地球で開花したことも見ずに絶滅してしまった人類の祖先。
彼らがいわゆる創造主、あるいは神なのかもしれない。
その星の引力や大気など、種々の環境にもよるが、基本的には私たち人類と同じ形状で、言語を有していたはず。
そしてきっと犬と共に暮らしていたのだろう。
どれだけたくさんの遺伝子が銀河系にばらまかれ、成長しているのか。
進化のスピードが違うだけでも時間的に出会えない。
でも、もし出会えることがあったなら、そしてこの仮説が正しければ、私たちととても似ている宇宙人に出会うのだろうな。
人類がこうまでして地球外生命体との出会いを求めているのは、遺伝子レベルでの郷愁なのかもしれない。
遠い遠いはるか昔の祖先を思い、宇宙に散らばった親戚に出会うために。
以前惑星協会のメンバーでもあったほど神秘的な宇宙、地球外生命体には魅力を感じているので、犬とのコミュニケーションを研究する過程で得た知識などが、なんとなく未知との遭遇でも役に立つのではないかなぁ、なんて思っていた。
SETIを代表に地球外生命体からの信号を研究する人たちが世界には大勢いる。深遠な宇宙の中で、私たちは一人ではない、と考える人たちだ。私もそう思いたい。
銀河系だけでも生命体が存在する可能性がある星は100万個以上だとカール・セーガン博士は分析した。
しかし残念ながら過去にも現在にもその明白な痕跡は、少なくとも公には発表されていない。
いつか出会える日が来るのだろうか?
そしてなぜ人類はこんなにも地球外生命体の存在を確かめたいのだろう。
人類の起源を自分の持つ限られた知識の中で想像してみた。
人類が言語を手に入れた理由は、科学者にとってもいまだに謎なんだそうだ。「跳躍的進化」がコミュニケーション手段として突然現れたのだが、これは全世界のすべての人類に共通している。生まれつき耳が聞こえない人でも言語を持っている。
一方で、人類以外の生命体で言語を持っている種はまだ確認されていない。
考えてみればとても不思議なことだ。なぜ人類だけ?
進化は種が生き延びるための必然性に支えられている。
現存する種はみな自分たちの環境に驚くほどうまく対応して生き延びているのだ。
逆の見方をすれば、うまく対応できなかった種は絶滅している。地球に生を受けた種の9割以上がすでに絶滅しているという事実がそれを証明している。
人類には当時、言語を得なければならない必然性があったのだろうか。
その時代に言語を手に入れなければ滅んでいたのだろうか。
ところで鳥類の祖先は恐竜だそうだ。幾多の困難を乗り越え、生き延びるために驚くべき進化を遂げている。
一方で現代の鶏にさえ、歯や前脚の遺伝子があり、胚をいじればそれらが出現するという。
隠された遺伝子が存在する・・・。
宇宙がなぜできたのか、生命はどのように誕生したのか、恐竜はなぜ絶滅したのか、今も科学的な研究が続けられていて、私たちにも興味深い新説が届く。
ところで現存する地球上のすべての種に共通していることは何だろう。
絶滅から逃れている種たち。これらに共通しているのは個の命よりも子孫を残すことが重視されていること。
一見利己的な人類でさえ、最後は己を捨てても種の存続を願うんだろう。
そんな私たち人類の遠い将来を考えてみよう。
巨大隕石との衝突が避けられないと解った時、不治の伝染病が蔓延し始めた時、高度な科学を持つに至ったが、それでも人類の滅亡を避けられない日が来たら。
私たちは何をするのだろう?
ノアの箱舟。
そう、きっと後世に我々の種を残すためのノアの箱舟が真剣に考えられるだろう。
もちろん選抜したエリートたちを大きな宇宙船に乗せてどこかの星に移民する、というのもイメージとしてはある。けれどかなり夢物語だ。
すべての生物に共通する一番の願いは種を残すこと。
高度な科学で人類の種を残すためにはどうしたらいいと未来の人は考えるのだろう。
遺伝子の最小限のユニットを無数の隕石に封じ込めて、できるだけ広範囲な宇宙にばらまいたらどうだろう。高度なテクノロジーによるノアの箱舟だ。
なにかタンパク質のカプセルに封じ込めるのかもしれないが、とにかく運が良ければ墜落したどこかの惑星でいくつかの偶然が重なれば、そこに人類の遺伝子を持った生命が誕生する可能性があるのではないか。
もちろん環境に適応するためにずいぶんと違う進化をして行くのだろうけど、実は私たちと同じ遺伝子を持っている生命体。ある日突然言語能力を身につける可能性がある。
ということは?
私たち自身が、もしかしたらどこかの惑星で、かつて高度な科学を身につけた生命体の子孫であることもあり得るわけだ。
自分たちの遺伝子を流星群に託し、それが地球で開花したことも見ずに絶滅してしまった人類の祖先。
彼らがいわゆる創造主、あるいは神なのかもしれない。
その星の引力や大気など、種々の環境にもよるが、基本的には私たち人類と同じ形状で、言語を有していたはず。
そしてきっと犬と共に暮らしていたのだろう。
どれだけたくさんの遺伝子が銀河系にばらまかれ、成長しているのか。
進化のスピードが違うだけでも時間的に出会えない。
でも、もし出会えることがあったなら、そしてこの仮説が正しければ、私たちととても似ている宇宙人に出会うのだろうな。
人類がこうまでして地球外生命体との出会いを求めているのは、遺伝子レベルでの郷愁なのかもしれない。
遠い遠いはるか昔の祖先を思い、宇宙に散らばった親戚に出会うために。