エサで釣っていないか
モチベーショナルトレーニングでは、必ず、文字通りの「動機」が必要です。
手っ取り早いのは「食べ物」です。
以前よく「おやつでトレーニングするのはエサで釣っているみたいで犬にフェアでないからいやだ」という意見を聞きました。
思い返してみれば私も最初は違和感を覚えていた気がします。
かけがいのない生活のパートナーを「エサで釣る」のはいやだなと思っていました。
これ、よく考えると、かなり人間の側のエゴに基づいた理論です。
1万5千年前、共に暮らすことを選んだのは人間ではなく、犬のほうだったという科学者の意見を聞くと、ますますそう思います。
なぜ犬は人と暮らすことを選んだのか。
それはもちろん種として生き延びていくためです。
生き延びるためには食料と安全が必要です。
それを最も手に入れやすい環境が人と暮らすことだったのです。
その判断は大正解でした。
その子孫である現在の家庭犬は現在世界に20億頭いるともいわれています。
犬属の中で圧倒的に繁栄しています。
犬が人と暮らす理由、それは「お友達だから」でも「気が合うから」でもありません。
食べ物と安心を手に入れるためです。
オスワリを教えるのに「エサで釣るのは嫌だ」と言っている人でも、愛犬に食事を与えない人はいません。長いスパンで人間側の視点からみれば「エサで釣って」そばに居させていることになります。さらにリードで拘束し、フェンスで囲いこむ・・・・。
お友達、とか家族とは随分違う感じです。
ところがこれを犬側の視点から見れば、「生活を支えてくれている」ことにほかなりません。
安全な空間と、日々の糧を危険をおかさずとも得られるのです。
良い飼い主とは「安全と食べ物を与えてくれる」人に他ならないのです。
と、食べ物を使うトレーニングへの否定そのものがナンセンスだという理屈を展開したうえで、矛盾するようですが、改めて表題の「エサで釣っていないか」について考えてみたいと思います。
トレーニングが科学的になってくると、「新しい行動を教えること」がどんどん簡単になってきます。
特に食べ物を用いるといくらでも教えていけるような気がします。
行動分析学に基づいた動機付けを行っていれば、どんな動物でも遅かれ早かれ学習していくからです。
クリッカーはその最たるものです。
ところが食べ物を用いる場合、トレーニングが理論的であればある程、学習時の条件付けはシンプルに、食べ物に限定されることになります。
行動の理由がはっきりと食べ物に集中するわけです。
ある種の作業動物や犬の競技会だけを考えれば、それでもたいした不都合はありません。
ランダム、と呼ばれるように、行動に対しての食べ物の報酬を不規則に出していれば、ちょっと出さないことが続いても行動は繰り返されるからです。
そんな場合(食べ物が出たりでなかったり)でも動機が「食べ物」であることは明白です。「エサで釣っている」ということになります。
食べ物が絶対にもらえないとわかっていれば、やらないことになります。
一方、食べ物が行動の動機となっている場合、食べ物を出すのが別に飼い主でなくても影響はありません。他人だろうが、ロボットだろうが、結果に食べ物が約束されていれば行動は繰り返されます。
これはよく言われる「絆」とは程遠い状態です。
「エサで釣る」(食べ物を使う)トレーニングが嫌いな人たちと、実は同じような理由で、私たちは犬に「絆」を求めています。
心のつながりで指示に従ってほしいと望んでいます。
でも新たに行動を覚えさせるのには、実は絶対に「動機」が必要なわけです。
で、「エサで釣る」のがいやだったら、ほかの何かを探さなければならなくなります。
行動分析学で分けるなら、好きなものが現れる「正の強化」か、いやなものが消える「負の強化」以外はあり得ないので、動機を「従わないと嫌なことが起きる」方に持っていくしかなくなってしまいます。
もちろん「おもちゃ」という動機もありますが、これは、捕食本能がベースなので、意味的には「エサで釣る」のとほぼ同義です。
では、どうすれば体罰をはじめ非人道的なことを行わずに、「エサで釣る」ことなく指示に従ってもらうことができるのでしょうか?
別の視点から言うと、どうすれば「絆」を作れるのでしょう?
それこそが私たちの最も大きなテーマなんだと思います。
それこそが探究するべき課題です。
犬が喜んで飼い主の指示に従う、食べ物以外の理由・・・・。
それをも見つけなければ「絆」を作り出すことはできないでしょう。
ひとつだけ。
「新しいことを教える」ことと「教えたことを確実に実行してもらう」ことは、実は全然違うプログラムなんです。
「新しいこと」は、食べ物という、一番わかりやすい動機で覚えてもらうのがいいでしょう。
でも「覚えたこと」を実行してもらう理由がいつまでも食べ物だったら、そこには「絆」はなかなか育まれないと思います。
そしてランダムリウォードという考え方は、「動機が食べ物」のまま、食べ物がすぐに出ないときでも実行してもらう、という考え方に過ぎないことを、私たちは理解していなければならないんだと思います。
手っ取り早いのは「食べ物」です。
以前よく「おやつでトレーニングするのはエサで釣っているみたいで犬にフェアでないからいやだ」という意見を聞きました。
思い返してみれば私も最初は違和感を覚えていた気がします。
かけがいのない生活のパートナーを「エサで釣る」のはいやだなと思っていました。
これ、よく考えると、かなり人間の側のエゴに基づいた理論です。
1万5千年前、共に暮らすことを選んだのは人間ではなく、犬のほうだったという科学者の意見を聞くと、ますますそう思います。
なぜ犬は人と暮らすことを選んだのか。
それはもちろん種として生き延びていくためです。
生き延びるためには食料と安全が必要です。
それを最も手に入れやすい環境が人と暮らすことだったのです。
その判断は大正解でした。
その子孫である現在の家庭犬は現在世界に20億頭いるともいわれています。
犬属の中で圧倒的に繁栄しています。
犬が人と暮らす理由、それは「お友達だから」でも「気が合うから」でもありません。
食べ物と安心を手に入れるためです。
オスワリを教えるのに「エサで釣るのは嫌だ」と言っている人でも、愛犬に食事を与えない人はいません。長いスパンで人間側の視点からみれば「エサで釣って」そばに居させていることになります。さらにリードで拘束し、フェンスで囲いこむ・・・・。
お友達、とか家族とは随分違う感じです。
ところがこれを犬側の視点から見れば、「生活を支えてくれている」ことにほかなりません。
安全な空間と、日々の糧を危険をおかさずとも得られるのです。
良い飼い主とは「安全と食べ物を与えてくれる」人に他ならないのです。
と、食べ物を使うトレーニングへの否定そのものがナンセンスだという理屈を展開したうえで、矛盾するようですが、改めて表題の「エサで釣っていないか」について考えてみたいと思います。
トレーニングが科学的になってくると、「新しい行動を教えること」がどんどん簡単になってきます。
特に食べ物を用いるといくらでも教えていけるような気がします。
行動分析学に基づいた動機付けを行っていれば、どんな動物でも遅かれ早かれ学習していくからです。
クリッカーはその最たるものです。
ところが食べ物を用いる場合、トレーニングが理論的であればある程、学習時の条件付けはシンプルに、食べ物に限定されることになります。
行動の理由がはっきりと食べ物に集中するわけです。
ある種の作業動物や犬の競技会だけを考えれば、それでもたいした不都合はありません。
ランダム、と呼ばれるように、行動に対しての食べ物の報酬を不規則に出していれば、ちょっと出さないことが続いても行動は繰り返されるからです。
そんな場合(食べ物が出たりでなかったり)でも動機が「食べ物」であることは明白です。「エサで釣っている」ということになります。
食べ物が絶対にもらえないとわかっていれば、やらないことになります。
一方、食べ物が行動の動機となっている場合、食べ物を出すのが別に飼い主でなくても影響はありません。他人だろうが、ロボットだろうが、結果に食べ物が約束されていれば行動は繰り返されます。
これはよく言われる「絆」とは程遠い状態です。
「エサで釣る」(食べ物を使う)トレーニングが嫌いな人たちと、実は同じような理由で、私たちは犬に「絆」を求めています。
心のつながりで指示に従ってほしいと望んでいます。
でも新たに行動を覚えさせるのには、実は絶対に「動機」が必要なわけです。
で、「エサで釣る」のがいやだったら、ほかの何かを探さなければならなくなります。
行動分析学で分けるなら、好きなものが現れる「正の強化」か、いやなものが消える「負の強化」以外はあり得ないので、動機を「従わないと嫌なことが起きる」方に持っていくしかなくなってしまいます。
もちろん「おもちゃ」という動機もありますが、これは、捕食本能がベースなので、意味的には「エサで釣る」のとほぼ同義です。
では、どうすれば体罰をはじめ非人道的なことを行わずに、「エサで釣る」ことなく指示に従ってもらうことができるのでしょうか?
別の視点から言うと、どうすれば「絆」を作れるのでしょう?
それこそが私たちの最も大きなテーマなんだと思います。
それこそが探究するべき課題です。
犬が喜んで飼い主の指示に従う、食べ物以外の理由・・・・。
それをも見つけなければ「絆」を作り出すことはできないでしょう。
ひとつだけ。
「新しいことを教える」ことと「教えたことを確実に実行してもらう」ことは、実は全然違うプログラムなんです。
「新しいこと」は、食べ物という、一番わかりやすい動機で覚えてもらうのがいいでしょう。
でも「覚えたこと」を実行してもらう理由がいつまでも食べ物だったら、そこには「絆」はなかなか育まれないと思います。
そしてランダムリウォードという考え方は、「動機が食べ物」のまま、食べ物がすぐに出ないときでも実行してもらう、という考え方に過ぎないことを、私たちは理解していなければならないんだと思います。